Archive for year: 2014

模倣

久しぶりのブログです。
今回は「模倣(まねる)」ということについて考えてみたいと思います。
赤ちゃんが身につけたり、覚えていかなければならないことは、大変な数になります。もし、親が一つ一つ教えていくとしたら、気の遠くなる作業となるでしょう。
人は、真似をすることができる、または真似をしたがるから、生きていくために必要なことを身につけていくことができるといえるでしょう。
発語器官、呼吸コントロール力が発達し、社会的かかわりができてくると、見よう見まねで口を動かし、声を真似してことばを習得していくのです。ことばを獲得する過程で模倣は重要な役目を担っているといえるでしょう。もし、真似をしない、したがらない子どもがいたらどうでしょう。「この子は私の言うことはわかっているようなのに、口をきいてはくれないんです」とお母さんが相談に来て、まず最初に訴えることがよくあります。子どもの中には親の発語ばかりでなく、動作・振る舞いにも関心を示さない方がいます。そんな方々の教育相談・療育にかかわる専門家にとっても「真似しない」ということは頭をかかえる大きな問題です。
お母さんにベッタリくっついていては、お母さんの声掛け・動作にさえ関心を示しませんし、もちろん模倣もしてもらえません。療育担当者は思わず真似したくなるような声・表情・動作を見つけなければなりませんが、とても難しいことです。誘導したり、少々強制して動作を真似させて、直後に「くすぐり」「プッシュ」「振動」など対象とする子どもの好みの刺激(「ニコッ」とする)を提供しましょう。これは自分から真似している(モデリング)のではなく、模倣訓練といいます。模倣することが楽しくなり、習慣化するまで繰り返し、色々な動作や音声の模倣訓練を進めましょう。
「模倣」が活発化すると目に見えて全般的に成長している姿が見られるでしょう。もともと真似をすることを得意とする赤ちゃんに感謝しましょう。

強制登校の是非

真面目でやる気満々の先生が、ほぼ1年間登校しぶりでわずかしか登校していない3年生の男の子の担任として取り組み出しました。
早朝に家庭訪問をし、親と一緒に登校準備をさせ、学校に半強制的に連れて行くようにしました。
4月、5月は強制的誘導はあるにせよ、ほぼ毎日登校しました。ところが、6月のある日、子どもの抵抗が強かったのか、暴れたはずみで壁に頭をぶつけてたんこぶを作ってしまいました。その後で男の子は、「頭が痛くて学校へ行けない」と訴えはじめました。お医者さんに行くことを拒否して、「痛い」を登校しない理由として再び不登校となってしまったのです。
一方、母親は担任の行った強制登校を「虐待」だとして教育委員会に訴えました。教育委員会・学校責任者・家庭児童相談室の3者会談が開かれ、担任と親の虐待を主訴として児童相談所に対応を依頼しました。
ところで、不登校状態の改善に「強制登校」は間違いなのでしょうか。この事例の場合は、強制しても登校すれば仲間(同級生)と楽しくつき合い、学習は、不登校によって生じた学習遅延はあるにせよ、先生の配慮で何とか過ごすことができています。
この子の場合のように、学校での「いじめ」とか「学習困難」とか「対人関係困難」などのマイナス要因はないので、家庭への何らかの理由による癒着が問題といえるでしょう。強制登校は問題解決上ベストの方法です。すなわち、「是」です。留意する点としては、学級に誘導された子どもが小さくなって、おどおどして、途方に暮れるようであれば、「学校」に問題があるので強制登校は不適切といえるでしょう。
きちんと調査をして、本当の原因を見つけ出して、その解決を先行しなければなりません。この場合には強制登校は「非」といえます。

「診断」と「アセスメント」

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医学の世界では、正しい「診断」がくだされることはとても大切なことです。それによって薬が選ばれ、その他に安静にしているか、手術が必要かなどが決まってくるのです。
しかし、行動上の問題(孤立、乱暴、保育園や学校に行かないなど)や発達上の問題についてはピッタリと合う特効薬はほとんどありません。
「診断」というレッテル貼りだけでは意味がありませんし、必要ないのではありませんか。
家ではよく話しをする子どもが、学校や保育園ではまったく口を開いてくれません。「選択緘黙せんたくかんもく」という診断をくだされても、そういう病気なんだと感心するくらいです。一瞬、母親は「自分の責任ではなく、病気なのだ」と安心するかもしれませんが、特効薬があるわけではないし、またそれならどうすれば治るのかという手順を教えてもらえるわけではありません。途方に暮れるばかりです。
「自閉症」と診断され、「ゆったりした気持ちで気長に付き合っていく以外にありません」と言われたって何の役にもたちません。
「アセスメント」という言葉があります。これは現在問題となっている行動がどのような条件で生じているのか、場合によっては生まれてこの方の情報から実態を明らかにする。そして、まず何から取り組むかを決め、それに対応した方策を立てることです。
「レッテル」は意味がありませんが、「アセスメント」は重要です。何に取り組めばよいかを示しているからです。適切な経過の評価があれば、結果次第では次の対策を講じることができるでしょう。

100点でなければ0点と同じ

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先日、小学校2年生の男の子で、友達とトラブルが目立ち、担任の先生は本当に困っているということで、相談がありました。
トラブルのもとは、順番のあるものは何でも一番、勝敗のあるものは何でも勝たなければ、自分の気のすむまで続けたり繰り返したりするといったことでした。ドッジボールで当てられても「当っていない」と言い張り、周りから指摘されると大声で暴言を吐き、暴れだす始末。
このお子さんは3歳児健診で多動、ことばや人とのかかわりの問題から、「広汎性発達障害」と言われたそうです。その後、幼稚園では集団参加が困難と指摘されていたが、3年を経ても改善は認められなかったそうです。
一方、相談機関で1対1の指導を中心とした特別の療育を受けていました。相談機関では、小学校への入学に向けて認知学習の指導を受け、数や文字などについては小学校入学に支障のないレベルには到達していました。当時のWISC-Ⅲの結果は、IQ:86で平均の下位にあたるものでした。
ところで、この社会性の育っていない問題は、その原因の一つとして、相談機関の指導が常に100点と「花丸」といった評価を重ねられていたことがあげられます。すなわち、課題が提示され、この子が答える。例えば算数のプリントで誤りがある場合は修正され、最終的には100点と評価点を与え、「よくできました」と褒められ、描画なども不十分なところがあれば指摘し、修正させて「花丸」が与えられ「よくできました」と褒められてきました。
彼にとっては、学校で仮に「90点」をとっても失敗体験となってしまうのです。「三重丸」でも失敗作品なのです。世の中には「70点」でも満足する課題もあり、「三重丸」なら大成功もあることが理解されていません。さらに、こうしたステレオタイプな発想は、3回のジャンケンで2回勝てば大勝利、だけど2回負ければ悔しいけど「次の戦いに勝ってみせるぞ」といった柔軟で文脈のある考えとはならないのです。
温室育ちは、強風も吹く集団生活で生き抜くことは難しい。家庭生活の中でも、ときに(年中ではいけません)冷たい強風に当ててやることも子育てには大切でしょう。

「せんせい」と「おさかな」

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本来は、3歳くらいの幼児が「チェンチェイ」とか「オチャカナ」と言うのは微笑ましい状況に思えるものです。しかし、この頃の年少組(3歳児集団)に「チェンチェイ」と言う子どもが入ってくると、「赤ちゃんことばだ」とはやし立てられる始末です。本人は訳が分からず、途方に暮れるばかりでしょう。
音声作りで舌には大きな役割りがあり、口蓋への接触の仕方でサ行、タ行、ナ行、ラ行を構音しなければなりません。これには舌の運動神経の発達と耳の音声弁別能力の敏感性がかかわってくるのです。大人が試してみてもナ行とラ行はどんな風に舌の接触が異なるのか、よくわかりません。それほど微妙な運動神経が、正しい発声には必要なのです。
全般的な発達が平均的であれば、学校に入るまでに(6歳)サ行もラ行も正しく発声できるようにはなります。しかし、周囲から揶揄されたりして本人が気にしていたら、耳の弁別力と舌の動きを専門家に相談し、指導を受ける必要があります。
また、ことばの発音の遅れが身心の全般的な発達の遅れと連動している場合には、言葉に限局せず、全身の発達を促す働きかけを考えていかなければならないと言えます。

日本語は苦手、だけど英語は得意

紫の花

ことばが発達していく段階として、まず要求することばから出現します。お菓子やジュースなど好みのものは身につきやすい単語なのです。
この人は「ママ」ですと言うより、可愛いがってくれる、抱っこしてくれる、おいしいものをくれるのが「ママ」という発音のようです。
要求することばは、いわゆるコミュニケーションにはなっていません。やり・とりができ、意志交換ができてこなければなりません。
コミュニケーション力が対人関係を形成し、社会性を育てていくことになるのです。自閉症などの広汎性発達障害の方々は、多くの場合、ことばが使えるのに極端にコミュニケーションを苦手としているのです。
ところが、日本における伝統的な英語教育は、「ことば」の学習であるはずなのに「英会話」には繋がっていませんでした。現在、小学校などに導入されている英語学習は、楽しく、そしてコミュニケーションを念頭に置いているのです。
しかし、大学受験をゴールとする英語学習は、依然として文法・読解・英作文を中心として進められます。早期から「楽しい英語」でなく「受験英語」に取り組ませると、英語が中学・高校で高得点を獲得して得意となります。
もし、コミュニケーションを主体とした英語学習となったら、優秀な記憶力のよい発達障害の方は進学できなくなってしまいます。
発達障害の方の支援を続ける限り、これまでの日本の英語教育を批判することはやめておくつもりです。

大人になった自閉症

黄色いバラ

職場ではA君は間違いも少ない良い作業員として定着していました。指示をきちんと理解し、必要な発語も明瞭でした。そして、上司などの指示にも速やかに対応することができました。
ある日、機械の調子がよくないので何人かが集まって検査をしましたが、どこが不調なのかわかりませんでした。そこで、専門家の主任にチェックしてもらうことにしました。
先輩がA君に「主任を見てきて」と指示したところ、A君は「ハイ」と答えて事務所に向かいました。間もなくA君は戻ってきて、「見てきました」と報告しました。
実は、主任が居たら連れてこなければならない事態でしたので、A君は先輩から「役立たずめ」と叱られてしまいました。
先輩の指示には正しく反応できましたが、文脈の理解ができていなかったのです。つまり、「主任が居たら連れてくる」を把握できなかったということになるのです。職場のみなさんには、ぜひご理解をいただきたいと思います。

一人っ子と長男・長女

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「長男の甚六」とは、総領息子をあざけって言う どちらかといえば「お人よし」の「ぼんやり」者といったマイナスイメージの慣用語でした。一方、「一人っ子」はわがままで協調性が乏しくなり易いとされていますが、一人っ子で長男・長女となると、恐ろしい世の中になってしまいます。
ところで、「甚六」は本当にどうしようもない「ぼんやり」者なのでしょうか。「お人よし」は本当に悪いことなのでしょうか。
伝統的には、長子には弟や妹の面倒をみる役割が家庭内で与えられてきました。ですから、小さい子どもの世話をすることが得意となったのでしょう。学校の先生、保育園の保育士、医師・看護師など、小さい子、病人などの面倒をみる仕事に就く方も多く、天職と思えるレベルの高い成果を上げることができます。
一人っ子は弟や妹の面倒をみる機会がなく、家庭内では「面倒をみられる」役割が中心となります。適切な仕方で面倒をみてもらえた子どもは、大きくなると自分に対応してくれた仕方で他の人の面倒をみるようになります。ですから、不適切な仕方で対処された子どもは、大きくなって不適切な仕方で他の人の面倒をみてしまうといった危険も生じ易くなるようです。

「苦手」の意識化

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大相撲での取り組みでも通常の位や実力を越えて得意・苦手といった相性の問題が取沙汰されることがあります。
個人的経験ではありますが、30歳前後の若いカウンセラーの時代に自分より年長でしかるべき肩書きのついているクライエントに対して苦手意識が強くありました。心理的圧迫を感じたのです。これではカウンセラーの役目を果たすことは不可能です。30代の中盤となり、自分の肩書きも「助教授」とついた時点で、ようやく年長の男性のクライエントは得意となってきました。
70歳を過ぎても苦手とするクライエントが残ってしまいました。それは中年の「不定愁訴」婦人です。当初は年長女性への抵抗によるものではないかと感じていました。しかし、同年代になっても苦手感は克服されませんでした。
ついに年代的にはカウンセラーとしての自分が年長となり、苦手感を克服できるのではないかと期待していました。しかし、駄目でした。この種の苦手感となると、もっと深い原因がその底にマグマとして屯しているのかもしれません。本態を明らかにしたとき、すなわち意識化できたときに本物のカウンセラーになれるのかもしれません。

「性格」は変わる、変えることが出来るのか?

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人柄とか、個性とか言われるものは、概ね「性格」「人格」と言われるものに近いでしょう。源となっているのは、親から遺伝として伝わってきた「気質」とか「体質」というものなのです。生まれて育っていくところで、親・兄弟・姉妹など周囲の人とのかかわりで「性格」は出来上がっていきます。
親が厳しいと叱られないための方略をとるようになるでしょう。親に合った態度や行動をとったり、しっかりと状況を確かめてから行動するなどの癖が身につきます。これは、一般的には「内向的」と言います。一方、親が放りっぱなしでとやかく口出ししないと、伸び伸びとしっかり確かめずに動く癖が身につきます。これは、「外向的」と言います。
以上は遺伝から、幼児期のしつけ(基本傾向)から作られてくるものです。
その後も立場、役割を継続することにより更に身につけたり、変容したりする習慣的人柄があります。それらはもっともらしい顔付きをしているから「先生風」、「役人風」、腰が低くて愛想がよいから「商人風」、「営業マン風」といった習慣的人柄が身につきます。そして、一人の人間がサラリーマン・夫・父親・登山家など、何種類かの役割を演じています。その役割に応じた言動が必要でしょう。
「性格」は役割・習慣的人柄の方はどちらかといえば変化しやすい。気質や基本傾向は変わらないと一般に言われています。こうした総合的な人柄を「パーソナリティ」と心理学では表しています。